昔は朝食を自分の分だけ作り、寝ている家族より先に食べていたが、最近は家族分の朝食も作るようになったkeidaです。
カフェとブログ/サイト運営+雑記のブログなのですが、今回書くことが思いつかなかったので、日々の生活の中で思ったこと、感じたことをちょっとまとめてみようという取り組みでこの記事を書いてみました。
テーマは朝ごはんはどうやってなりたっているのか。
発端は朝ごはんの野菜を切るところをやっている途中に、朝ごはんを作るの「根幹」のところからちょっと考えちゃったんですね。朝ごはんはどこから始まっているのかということです。(サイトを作っているとこういう考え方、根幹から考える思考になってしまいがち?)
そういった考えをもとに思考してみると、ああ、いろんな人が朝ごはんにかかわっているんだな。ということに気がつくことができました。
自分で朝ごはんを作る?
人参はどこからくるのか。
冷蔵庫に入っている人参は何も言わずに冷蔵庫に鎮座している。スーパーで購入されたであろう、人参だ。
自分はこの人参を朝ごはんの野菜にするためにカッティングするのだが、これは自分の母親の仕事だった。
自分が朝早く家を出る際には、自分の分の朝食を作り、食べ、家を出ていたのだが、家族の分も作るようになると、若干意味合いが変わって朝ごはんを作るという1つの仕事・生活が見えてきた。
自分が人参を切り、準備されたガスコンロでサッとこびりつかないフライパンで野菜を炒めることができる。
普通の人、学生なら、野菜を切って、炒めて、お皿に盛り付けて朝ごはんを作るのは終わりだというだろう。
主婦であれば、買う野菜をリストアップして、買い出しをして、保存、野菜を切って、炒めて、盛り付けして朝ごはんを作るのは終わりだというかもしれない。
自分だけで朝ごはんは作くれても、自分だけで朝ごはんは作れていない。
だが、そういった考えの元で朝ごはんを作っていては、いつしか、朝ごはんをつくるのも億劫になってしまうだろうと思った。
なぜなら、家という小さな、狭い空間だけで、朝ごはんは本当は成り立たないからだと思う。
現に食材はスーパーに買い物に行く必要がある。はたまた、スーパーには食材がいつもとりそろえてあるので、それが普通のように感じてしまうが、スーパーの人たちが食品を切り分け、トレイにつめ、地域のスーパーを運営してるからこそ、食材がすぐに手に入るのである。
地域にスーパーもコンビニもなければ、一体だれがどうやって朝ごはんを作れようか。スーパーという食材管理庫を運営している人には感謝が湧いてくる。
そして湧水のようにスーパーの地下から食材がワンサカ出てくるわけではないのだ。
トラックで配達をする人、農家の人、漁業の人、ドリンク開発の人。
それら全ての人たちが、スーパーを作っている。彩っている。
そしてそれぞれの場所でその場所を支える人や、施策を練る人がいて、人の繋がりは樹形図のように広がっているのが見えてくる。
これらが見えてくると、この人参は一体どれくらいの人にささえれれて、自分の家の冷蔵庫に鎮座したのかがわかってきた。
まとめ:効率化された世界での朝ごはん
朝の朝食は母親が作っていたが、母親意外にも作りに参加している人がいる。
今は自分が作ったりもするが、一人で作っているわけではない。生活は一人では成り立っていない。
自分の時間は自分が確保している。そんな思いになるのは導線が見えなくなってしまっているからだと思う。あるいは先祖たちの当たり前を作った環境が自分たちにはないから。
今の時代は本能から離れた生活をしているようにおもえる。
生きることを効率化し、生きること意外で生きる意味を見つけようとしている時代だ。
だから、生きるだけということが難しい。のだと思う。
1つ1つの作業が代行化され、小さく小さく作業が分割化された。
朝ごはんはいくつもの人と作業と時間によって形成されていて、一人で作っているが、自分一人では作っていない。感じることはむずかいしいが。
先立つのではなく、後立つ時代に先祖たちがしたのかなぁ。
得られた気づき
・朝ごはんを作ることを広い目でみると色々な人たちとのつながり、社会の成り立ち・生活が見えてくる。
・朝ごはん作ることは家庭内での1つの仕事・生活の営み・家族生活
・生活の総数は色々な機関と人によって支えられている
・時代の変化により、目に見えない部分が多くなり、気づかないこと・感じられない事が増えている可能性がある